この本を読むのは2回目でしたが、やっぱり記事としてまとめなければならないと思いました。
読み進めるたびに、初めて読んだ時から忘れていたことが思い出され、我が家の教育方針(子供まだはいないけど)にしたいと思った名著である。
本は読んでも、実践できなければ意味がないですよね。
本書には幸せに生きる方法が書かれているので、体に染み渡るまで理解できるよう自分の言葉でまとめたいと思います。
生きるのが辛いのは、自分を好きにならないでおこうと決めているから
ドカーンと心を打たれました。
生きるのが辛いというのは、自分が好きじゃないから、辛いのだと思っていたけど、違うようですね。
アドラー心理学の本質は、あなたがとる行動には必ず目的があるという、目的論に沿っています。
「目的論」の対になるものは「原因論」です。
両者を説明するには、例があったほうが良いでしょう。
■悩み
他者に話しかけることができない。
■原因論
過去に学校でいじめられており人間不信になったことが原因である。
■目的論
話しかけると自分が嫌われるかもしれない。嫌われるのを避けることを目的として、話しかけない。
原因論は、すべて過去の出来事が、今の行動に影響を与えているという考え方です。一見、正しいようにも思いますが、これではつらい過去を持っている人の中でも現在は華やかに活躍している場合がある説明がつきません。いじめられていた人はみんな等しく他者に話しかけることができなくならなければなりません。
でも現実ではそんなことはないんです。
そこで、目的論が出てくるのです。
目的論では、現在の行動はどんな過去の出来事に影響を受けておらず、いま選択することができるというものです。そのため、例のように話しかけられずに悩んでいたとしても、それはあなたが何かしらの目的を果たすために今の行動を選択していると考える必要があるんです。
では、章タイトルに戻るのですが、
「自分を好きになれないのは、自分を好きにならないと決めている」とは、どういうことでしょうか。
答えは、「自分を好きじゃないほうが、自分の目的達成のために役立つ」からです。
例えば、
好きな人がいるけれど、自信がなくて話しかけられない
好きな人がいるときに、あなたが避けたいことは「相手に振られる」ことです。
100%振られないようにするためには、そもそも話しかけなければよいですよね。
だから、話しかけない理由をとして「自分に自信がない」を使ってしまうんです。
人は可能性の中に生きていたくなるものです。私もですが、失敗するのが怖いんですよね。
「自分なら絶対できる(と思う)。まだやってないから結果はでてない。できるはずだ。」という可能性を残しておきたくなるんです。
そのためには行動しない理由を作る必要があり、自分を好きにならないでおこうとか、私はまだ若いから今じゃないなど様々なことを持ってしまうんです。
「幸せとは、他者への貢献感である」と言い切っている
幸せの定義って難しいですが、アドラーは今から100年以上も前に明確な答えを用意していたんですね。驚きです。
結論:他者へ、自分が貢献できていると思えること
アドラーは人間は自分の存在価値を感じることで、幸せを実感できると言っています。その具体的な行動としては、他者に貢献し自分がそれを実感することになります。
私はこの話を読んで、「募金をすると、募金をした人も幸せを感じる」という話を思い出しました。
募金をするというのは、恵まれない方々へ自分が持つお金を分け与えることです。なので直接的に他者へ貢献できる行為なんです。その時に得られる貢献感が、人にとっての幸せにつながるということですね。
募金は社会的な意義のみならず、自分のためにもなる行動として優れたものだったということを心の底から理解しました。
教育とは相手が自立するための援助である
私に子供が生まれたら、アドラー心理学に基づいた教育をしたいと心の底から思いました。
アドラー心理学では、子供に対してお手伝いをしたら褒めたり、宿題をやらなかったら叱ったりすることを否定しています。
なぜならば、子供に賞罰を与えていると、「子供は褒められたいからやる」「叱られたくないからやる」という思考になり、「褒められない/叱られない」ならやらなくてもいいんだといと考えてしまいます。
それを回避するためには、相手と対等な関係を築く必要があります。
相手が子供だろうと、部下だろうと人は全員対等であり、褒めるという行為はその性質上、上の人から下の人への言葉になります。
褒めた時点で人に上下関係が発生してしまい、下の人は上の人の意見を聞き入れて行動しようとする。そうすると下の人は上の人(他者)の期待に従って生きていかなければなりません。
しかも目的を達成したからといって、本当に上の人が評価してくれるとは限らないですよね。
それに、もし目的を果たせなければ、その行動がすべて無駄だったのかということになってしまいます。
褒めたり叱ったりする行為は、親子の上下関係を生み出してしまい、子供は親の指示に従うのみ、つまりは自分の好きなように生きられなくなるので、教育現場においてはあってはならないということです。
では、どうすればよいか。
答えは、「尊敬して相手に接し、礼を尽くす」ことだと言っています。
まず、尊敬とはただ敬うことではありません。具体的には「相手が興味のあることに、自分も興味を持って接する」ということである。
子供が電車のレールで遊んでいるとして、大人は邪魔なのですぐに片付けてほしいと感じるかもしれないが、子供目線ではそうではない。
子供はレールがあることが、かっこいいと感じているかもしれないし、子供ならではの世界観を持って構築しているのかもしれないのです。
要は、自分の感じ方と相手の感じ方は異なっており、尊敬するには相手がどのように感じているのかを理解しようとすることが大切であるということです。
子供を褒めたり叱ったりしないなら、どうやって子供にやって良いことと悪いことを教育するの?
そもそも教育とは、相手が自立するために必要なことを提供するものです。目的は相手の自立であって、問題行動の抑制ではありません。
子供が勉強をしないなら、それは子供自身の問題であることをしっかりと伝え、あなたは勉強しなさいなどと叱ってはいけないのです。
ただ、子供が自ら勉強をしたいときは、いつでも親ができるサポートは何でもやると伝えておくことが重要です。
「馬を水飲み場につれていくことはできるが、水を飲ませることはできない」
親は子供が自立するための教育を提供することはできるが、それで子供が自立できるようになるかは子供の課題であって、大人の課題ではない。
言い切ってしまうと、親が子供の人生を制御することなんてできないんです。
親がやるべきことは、子供に興味を持って接し、子供自身の課題をしっかりと伝え、それをやりたくなったらいつでもサポートできると話しておくくらいしかできないんですね。
いま、ここを全力で踊るように生きる
ここからは生き方の話です。
人生がレールのようにつながっていると感じるかもしれないが、実際はそんなことはありません。
「いま、ここ」という1つ1つの点があるだけでです。もしかすると、長い月日が経ったときに人生を振り返ると「もうここまで来たのか」と感じることはあるかもしれないが、それはたまたまなのです。
瞬く間に変化を続ける現代において、そもそも人生のライフプランを立ててもその通りに実行することはできないかもしれない。人はそんな不確定要素の中で生きているんです。
人生に対する考え方は、2つあるようです。
- 人生は登山であり、登頂することが目的である。
- 人生は旅であり、旅することが目的である。
1つ目は、ゴールが決まっていてそこに到達することのみが目的です。なので最短最速でゴールへ向かうことが求められます。しかし、ゴールにたどり着けなければその人生に意味がなくなってしまう。
なぜなら、登頂することが目的であるのだから道中の出来事はどうでも良いという考えなんです。
これはとても悲しい考え方だと思います。毎日毎日を頑張っていても、ゴールにたどり着けなければ無駄な人生だったとなるからです。
一方、2つ目はどうでしょうか。
旅は、旅をすることが目的であり道中で見聞きしたことなど道中が重要です。目的地を決めていたとして、そこまで行けなくても旅をしなかったことにはならない。
人生も同じです。
人生は「いま、ここ」という一瞬を精一杯生きることの連続であり、現時点で目的は果たされているんです。
この考え方であれば人生は常に完結しているといえます。
旅は目的の途中であっても、旅をしたことになる。
いま、ここを丁寧に全力で生きることができれば、あなたの人生はその時点で完結しているので、どこで終わっても大成功なんです。
未来のことを考えても、その通りになるかはわかりません。今できることを精一杯やるようにしましょう。
さいごに
マジで「嫌われる勇気」は名著ですね。人間の苦しみや自分が空回っていた理由が本書を通して理解できるような気がしました。
タイトルだけを見て、避ける方も多いのかもしれませんが、本書は幸せとは何か、を追求した本です。
そして、「幸せとは、他者への貢献感である」と言い切っています。
今の人生に何か足りない、幸せを感じられないというときはアドラー心理学を忘れているときなのかもしれないので、何度も読み直していきたいです。
それでは、また。
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